コメント

是枝裕和(映画監督)


あの事件の「自己責任」を問われた人々のその後の人生における「責任」の取り方を追いながら、この作品は、あの戦争を支持し、加担した 人々の未だ果たされぬ、世界に対しての「責任」を問い掛ける。

谷村志穂(作家)


若い監督、伊藤めぐみさんには、迷いがない。始まりから終わりまで、自分自身の確かな実感がある。 世界は平和ではないと実感するのは他人事で、実は一見平和に見えるこの国の中にこそ、たくさんの矢が飛び交っているのだと怖いくらい感じる瞬間を経て、人は本当に世界に出会うのだと思う。

澤地久枝(作家)


イラクの首都バグダッドから70キロの街ファルージャ。
2004年4月、三人の日本人が拘束され、日本国内で「自己責任」を問う声が起きた。
イラク攻撃の理由、大量破壊兵器は発見できず、アメリカは撤退する。
ファルージャでは二分脊椎など、障害を持った子が生まれ、命は数時間で終る。
高遠さんは一人でファルージャへ入り、戦争がまさに今進行している現実を報じようとしている。その勇気に揺さぶられる思いがする。
ファルージャは意識の底で遠くなっているが、あの新生児たちの姿には頭をたれる。生きのびているすべての人間へのメッセージだと思う。

大澤真幸(社会学者)


あの人質事件によってわれわれは思い知った。われわれ日本人は、〈正義〉についてのあらゆる思想をすでに失っている、と。こう痛感せざるをえなかったのは、「正義」の実現を目ざして失敗した三人に対するバッシングが、もうひとつの「正義」を立ち上げようとする格闘を通じて発せられたわけではなく、主としてルサンチマンの温床から出てきていたからだ。「ファルージャ」には、〈正義〉のこの不毛地帯から脱出しようとする必死の試みが撮られている。成功への保証をもたないそれらの挑戦に、胸が打たれる。

安田純平(フリージャーナリスト)


自分ではない自分を批判され、期待されていたようで対人恐怖症になった―との今井さんの言葉には身につまされるものがある。やはりイラクで拘束された私も経験した感覚だからだ。人との関わりを通して自らの居場所と役割を見出し、自分を取り戻していく2人の姿を見て、私が今も続けている戦場取材はただおのれのプライドにこだわってきただけのものなのではないか、という気がして少し胸がざわついた。

鈴木邦男(一水会顧問)


政府は国民を守らない。イラクで人質になった3人に対し、「自己責任だ」と言って切り捨てた。国を守らない政府など、いらない。倒されるべきだ。ところが冷酷な政府を支持するマスコミがいた。愚かな国民もいた。そして、帰国した3人に猛然と襲いかかってきた。「死んだ方がよかった」と。もはや、「殺人国家」だ。国家的な狂気、暴走、ヒステリーは何故起きたのか。カメラは冷静に、真面目に、執念深く、この問題を追いかける。そして告発する。「国家的いじめ」に抵抗できなかった我々一人一人の<責任>も問う。考えさせられる映画だ。怖い映画だ。

天木直人(元駐レバノン特命全権大使)


米国のイラク攻撃が行なわれてから10年あまりがたち、日本だけがその検証をすることなく忘れ去ろうとしている。 在レバノン特命全権大使の職をかけてイラク戦争に反対した私としては残念でならない。
そんな思いの中で私はこの映画を鑑賞する機会に恵まれた。
これこそがあのイラク戦争を見事に検証した映画だ。作者に感謝したい。そして一人でも多くの国民に観てもらいたい。

北田暁大(東京大学准教授)


自己責任という怖しく不気味で抑圧的な言葉が言論の場を覆いつくしたあの人質事件から10年。当事者たちがその後向かい合ってきた現実を辿り直すことにより、イラク戦争が、現地の人々にとってはもちろん、元「人質」たちにとっても、そして自己責任論という暴力を生み出し続ける日本の社会にとっても、終わりを迎えていないことが丁寧に描き出される。開戦時高校生であった作り手による、歴史になりきることのない近過去と現在への鋭利な問題提起。

サヘル・ローズ(タレント)


今の報道では語られなくなったイラク。
いや、当時ですら語られなかった現状。

そして人質三名の方々。 あのときは確かに私のまわりや、報道のあり方では『自己責任』だとか『本人たちが悪い』ような意志的な誘導を感じた。

この、ドキュメンタリーを通して感じた彼等の意思の強さやイラクへの思いは本物だと、遊び心じゃなくて。

そして高遠さんを通してみえる
アメリカが残した傷跡は痛々しく、癒えるどころか、あとから見えてくる次世代の子供たちへの脅威という刄は鋭く痛々しい。

映像は目をそらしたいものばかりですが…武器…ウラン。

このドキュメンタリーは
日本だけでなく
多くの国々でもみてもらいたい。

戦争は白旗をあげたら
終わりじゃなくて
続いてる。

批判はかんたん。
けれど批判をするまえに
あらゆる角度からみてから否定なり批判をするべきだと思いました。

原一男(映画監督)


「ファルージャ」に寄せて

作品を見ながら、何度、嗚咽を堪えたことだろう。ここには、日本人として、いや、「ヒトとしての生き方」の原理が、痛く、鋭く、熱っぽく、示されている。

 「イラクは、今も戦場だったーー。」アメリカの化学兵器を使用した爆撃による、イラクの先天性異常の赤ん坊たちの映像が挿入されているが、名状しがたい激情に駆られる。絶句するしかない。まさに、ヒトが破壊された状態で、一応、この世に生を受けてくるのだが、生きていく力もなく、まもなく死んでいく。この世の生き地獄のような惨状をみて、この子たちのためになんとかできることをしよう、と、真っ当に考えることができるヒトこそ、真にヒトと呼べるのではないか。「日本が支持した戦争に、今も苦しんでいる。」そのイラクの人々に対して、真っ当なヒトとして支援の活動に励む高遠菜穂子さんが、不運にも人質事件に遭遇、解放されたあと、ニッポン人たちから激しいバッシングを受け、さすがに落ち込んで、死にたい、と口にしたとき、高遠さんの母親は、娘の頬をひっぱたいて、何をグジャグジャ言ってるン! 早くイラクの人たちの元へいって働くように、と励ましたという。このインタビューのくだりが、作品の中で最も激しく私の琴線に触れた。湧き出てくる涙をとどめることができなかった。娘の背中を押し出す母と、背中を押されて、再び戦場へととって返す娘と、真っ当なヒトとしての凜とした輝きを見た想いだった。それにしても、この人質事件を巡って寄せられたメッセージの賛否の比率が、批判500通、激励800通であったという事実を、私は始めて知り、驚いたのだが、これを報道したヒトが、批判のみを取り上げたことが原因で、ネット世論の暴走に火をつけ、集団ヒステリックによるパニックとでもいうべき「自己責任を問う」バッシングが熱に浮かされたようにこのクニを襲った。事実を報道するという原理原則を忘れた記者が、その時、何を考え、恣意的な選択をしたのかを知りたい想いに駆られたが、取材拒否をしたのだろうか、映画には登場しない。ともかく、マスコミが煽り、為政者たちが、ここぞとばかり、ヒトとしての良心を潰しにかかり、浅薄なコクミンが踊らされるこのクニに、恐怖すら感じてしまう。いや、そうではないのだ。凄まじいバッシングに打ちひしがれ、PTSDに苦しみながらも、懸命に立ち直り、なお激しくヒトとしての生き方を求め、イラクなど戦場に赴き、苦闘する高遠さん、フィールドこそこのクニに移したが、不登校や引きこもりに苦しむ若者たちを支援しようと活動する今井紀明さんの姿が私たちの魂を揺さぶり、励ましてくれている、と、そのことに想いを馳せるべきなのだろう。

 この作品の監督である伊藤めぐみさんについても触れておきたい。「みんなが反対したら戦争を止められると本気で思っていた。」と高校生のときからイラクの子どもたちの支援の活動を始めたそうだが、この作品の全編にわたって醸しだしている緊張感は、自らが、ヒトとしていかに生きるべきかと息苦しいまでに問うていく真剣さのエネルギーの息づかいなのである。アメリカが大国エゴイズムむき出しで始めた戦争に追随するわがニッポン国の権力者。彼がイラクに自衛隊を送り込むという選択をしたことを受けて、伊藤さんは、これで、私も戦争に対して責任を負うことになった、というが、この感性こそが、真にヒトであることの証ではないだろうか。

 言わずもがなではあるが、ヒトとして生き方を問われているのは、観客である私たちである。汚濁と腐敗の膿と腐臭に充ち満ちたこの国の中で、真に、ヒトの生き方を問う「警世」という表現が値するドキュメンタリーに出会って、勇気を吹き込まれて心底、嬉しく想う。

森達也(作家・映画監督・明治大学教授)


とても重要な作品だ。観ながら思いだす。辛いけれど思いだす。あのときに自己責任を叫んだ人たちは、イラク戦争に対して無関心だった自分でもある。その帰結として現在がある。今も多くの人が苦しんでいる。助けを求めている。全国民に観てほしい。そして思いだしてほしい。考えてほしい。

鎌仲ひとみ(映画監督)


こんなにも献身的な女性を多くの日本人が誤解し、
激しく批判した。
こんなにも純粋な青年を歩いているだけで殴る人がいた。
ものすごく多くの日本人が中傷に満ちた手紙を送りつけた。
そのバッシングはいったいどこからやってきたのか?
メディアが作り出したのか、政府が企んだのか、その両方かもしれない。
しかし、何よりも2人は人質解放の後に待っていた。
日本での過酷な現実に向き合い、生き延び、前に進んでいる。
イラク戦争から10年。事実をきちんと伝えるこの映画ができ
積年の誤解が解けることを
心からありがたくうれしいと思う。

小野さやか(ドキュメンタリー作家)


「日本人人質事件」と大騒ぎしたあの日、誰もが最良の不完全な選択をした。
自己責任の負える範囲で発言をした人、重すぎる責任を負った人、無関心な人。
その延長線に、人間が人間を破壊する、オマケのような現実がある。
監督・伊藤めぐみさんは、28歳でこの違和感を形にした。

スクリーン越しに対峙したのは、安全な国・日本にいる「私」だ。

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